素敵じゃないか

素敵じゃないか

「実学」を目指して歴史 文化 音楽 などについて、ない頭めいっぱい使って書きます

Amebaでブログを始めよう!

今日は魔が差して書くと約束してしまった(?)The Beach Boysのアルバム"Pet Sounds"の紹介をしようと思います


正直なところ大好きなアルバムですので全く書くのは苦痛ではありませんが、初めてアルバムの紹介をするのでいささか不安ではあります……


では気を取り直して





Pet Soundsは1966年に発売されたThe Beach Boysのアルバムである。

The BeatlsのSgt.Pepper's Lonely Hearts Club Bandに並びロックの伝説的名盤("Rolling Stone's 500 Greatest Alubams of All Time"において2位。Sgt.は1位)と称される本作だが、Sgt.と比べると初見で「これはすごい!」と確信する人が実に少ない。



これを聞いたことがあるという知り合いは数人知っているが、いずれもピンときていないようである。

時にはビーチボーイズファンの人でさえ、特に初期のサーフ・ロックが好きな人には理解しにくいアルバムであるらしい。


しかし、これはまぎれもなくのちの音楽に大きな影響を与えた歴史的意義ある名盤であり、このブログによってPet Soundsの良さを少しでも感じていただければ幸いである。





●The Beach BoysとPet Sounds誕生までの経緯


おそらくほとんどの人はこのビーチボーイズというグループについてよく知らないだろう。同時代のロックバンドでも、ビートルズやローリングストーンズと比べると知名度がかなり低いように感じる。


しかし、音楽史に与えた影響はかなり大きく、ビートルズとともに一時代を築いたグループであることは疑いようがない。


ちなみに最近だと2013年公開の映画「陽だまりの彼女」で、Pet Soundsの一曲目である"Wouldn`t It Be Nice"がテーマソングとして使われたため、それで知った方は多いかもしれない。



ビーチボーイズは1961年アメリカ、カリフォルニア州でブライアン・ウィルソンを中心に兄弟のデニスとカール、従兄弟のマイク・ラヴ、高校の同級生アル・ジャーディンによるサーフ・ロックバンドとして誕生。


当時のサーフ・ロックは基本的にインスト中心だったが彼らはそれにコーラスを導入し、軽快なロックンロールに美しいハーモニーを駆使して歌った。

当時の西海岸の若者文化であるサーフィンやホットロッドなどを題材にして曲を書き、若者を中心に大ヒットした。




しかしビートルズの米上陸をきっかけにビーチボーズは独走状態から一転、ビートルズと熾烈な戦いを強いられることとなる。


このビートルズとビーチボーイズという米英のロックを代表するグループ同士の競争こそが、ロックにおける様々な革新をもたらしていく。


本稿で紹介するPet Soundsは、まさにこの2グループの「切磋琢磨」の末に生まれたひとつの集大成なのである。





このアルバム誕生の直接の動機として有名なのは、ビートルズのアルバム"Rubber Soul"。


ロックにあまり使われない楽器(シタールなど)を用いたり、ポール独特のルート音を外したベースの動き

(この"Michelle"などで見られるメロディアスなベースラインは元々ブライアンからの影響という話を聞いたことがある)

バロック調のピアノなど、アルバムを通して見られる多くの音楽的工夫から、ブライアンはアルバムを一つの「芸術作品」としてとらえるようになったのかもしれない。


この"Rubber Soul"に衝撃を受けたブライアンは、これに追いつくべく、全身全霊をかけてアルバムを作り始める。



"Pet Sounds"である







●Pet Sounds


このアルバムの特徴は挙げれきりがないが、あえて言うなら一貫した「物語性」と「実験的サウンド」である。







・「イノセント」と「失望」の物語


このアルバムで最もキャッチーな曲は、なんといっても1曲目の"Wouldn't It Be Nice"(素敵じゃないか)だろう。

きらびやかな2本のギターのイントロで始まるウキウキするようなシャッフルビートの曲だ。



歌詞は「愛し合あう君と僕が幸せな結婚生活を送れたら素敵じゃないか」至ってシンプル。に見える。


もちろんこの曲単体では、明るい未来に胸躍らされる期待に満ち溢れたナンバーなのなのだが、アルバム"Pet Sounds"の中で見るとかなり歌詞の解釈が異なってくる。




この曲はアルバム最後の曲"Caroline No"と対をなしていると考えればどうだろう。




そこで注目してもらいたいのは"Wouldn't It Be Nice"での歌詞に"If"が頻出することである。

そもそもタイトルそのものが仮定形だ。


つまり「いまだ実現していないこと」なのである。



この仮定形が頻出する歌詞は、期待を表しているとともに、

この先訪れる願いの叶わない未来を暗示しているのだ。



その一抹の不安が現実となるのがラストの曲"Caroline No"。


この曲は、恋人が変わり果てた姿で現れ、二度と関係を元に戻すことが叶わないことを悟る悲痛な歌である。

無邪気に結婚生活を夢見た日々はもう訪れず、「美しいものは死んでい」き、わずかな修復の可能性に対しても「No」と否定する。

メランコリーの境地である。



このアルバムは十代の少年の純真な心が大人のすさんだ世界に打ちのめされる物語である。



"Wouldn`t It Be Nice"をはじめ"Don't Talk"など無邪気に、時には静かに愛を確かめていた2人だったが、

少女はあることにショックを受けて落ち込み、少年が慰めの言葉をかける(I'm Waiting For The Day)。


少年は喧騒に疲れたように「しばらくどこかに消えたい」(Let's Go Away For Awhile)と言い出し、

「君のいない世界なんて神様しか知らないよ」(God Only Knows)と言ったものの、

ある人から「恋なんて、今ここにあっても、明日どうなるかわからないよ」「ちなみに彼女の前の彼氏はぼくなのさ」(Here Today)と言われ

思い描いていた理想の恋愛が壊され始める。


誰にも理解されていないとふさぎ込んだ少年は"I Just Wasn't Made For These Time"と世間に対する違和感を訴える。

そして結末には恋人のキャロラインさえ変わり果ててしまった。




思い描いていたピュアな幻想は崩れ去り、少年を理解してくれる者は誰もいない。


ブライアンの悲痛なファルセットがそれを物語っている。残ったのは踏切を電車の通り過ぎる音と犬の鳴き声だけという虚しさ。






この物語の主人公の少年は、ほかでもないブライアン自身であろう。


彼の前妻であるマリリンは「あのアルバムのためにブライアンが書いた音楽は、一人の痛みつけられた人間の内側から生まれてきたものだと思います。」と言っている。

これは彼の生い立ちや性格などを考えれば容易に想像することができる。

幼いころから父から虐待を受けて育ったブライアンはおとなしく内向的な性格になり、恋愛に対しても消極的でなかなか世間になじめない一面があった。


どこぞのイケイケうぇーい系大学生とは対極的な人柄である。

恋人には、幼少期に得ることができなかった親からの愛を求めているようになった、とブライアンは自叙伝で述べている。



これを踏まえると、恋人に母のような愛を求める、どこかメランコリックな少年の心がこのアルバムには感じられるのではないだろうか。





また、ブライアンはこのような革新的なアルバムを作るにあたり、かなり孤独な戦いを強いられていた。


レコード会社のみならず、

ビーチボーイズのメンバーであるマイクからも


「こんな音は犬にでも聞かせる気か?」


と不快感を示されたと言われている(実はこれがアルバムの名前の由来らしい)。



メンバーは作曲にあまり関わらず、実質的にブライアン一人による創作活動だった。

その心境はまさに"Let's Go Away For Awhile"であり"I Just Wasn't Made For These Time"あった。


しかもPet Sounds販売直後にアメリカでは受け入れられず、まさに「時代に合わない駄目な僕」になってしまったのは皮肉な話である。









このアルバムはブライアンの物語である、実に個人的かつ内省的なアルバムだ(民謡が元である"Sloop Jhon B"は除いて)。



これはブライアン・ウィルソンという人間を知ることによってより解釈が深まるという、

現代の日本に勃興しつつあるアイドルソングの特質と似た傾向を示している。



多くのポップスミュージシャンは「普遍性」を求める(アイドル音楽のアウラとコアとマス#1で、いきものがかりの例を出したことがある)。


もちろんこのアルバムもそれに大きく外れたものではないだろうし、単純にアイドル音楽の傾向と同一と言い切ることはできないだろうが、

この楽曲たちはまぎれもなくブライアン本人と密接に関わっている。


(言い忘れていたが"Wouldn`t It Be Nice"はブライアンが妻の姉ダイアンに対して思いを寄せてしまった禁断の恋を歌ったものだという説がある。)




まさにこのアルバムは「楽曲と人物の不可分」であるといえる。



自らの体験をもとに曲を書くこと自体は珍しくはないかもしれないが、事情を知る者がこのアルバムを聴くときにはブライアンの人柄、人生を想起せずにはいられない。




そして、問題なのは1、2曲そのようなものがあるということではなく、アルバムを通してブライアンが主人公である物語が展開されることである。







ここで勘のいい人は気付いただろう。主人公が存在するある有名なアルバムを。



そう、冒頭で挙げた"Sgt. Pepper 's Lonely Hearts Club Band"である。


このアルバムは史上初の「コンセプトアルバム」と言われ、

ビートルズをある架空のバンドに仮託して作曲されたものだ。

このアルバムは「Pet Soundsに影響された」ものであり、これに追いつき追い越そうとする試みだったと言われる。(ジョージ・マーティンやポール・マッカートニーの談)


これは私の邪推でしかないが、サウンド面以外でもビートルズは"Pet Sounds"の持つ「物語性」や「主人公」の存在について影響を受けたのかもしれない。

こう考えていくとPet Soundsもまた「コンセプトアルバム」と捉えることもできる。




いずれにせよ、このアルバムは全体で一つの作品であり、世の中に向かって「トータルアルバム」という考え方を提示した画期的なアルバムなのだ。


しかし、内省的で、暗く陰鬱な曲調が大半であったために、従来のビーチボーズとのギャップから当時のアメリカでは受け入れられず、今でも難解なアルバムとして存在しているのだろう。






このアルバムを理解するための一つの方法はブライアン・ウィルソンを理解することである。


この物語は現在のアイドルたちのように清々しいものではないし、むしろ対極とさえ言えるものである。しかし、清々しいばかりが世の中ではないことを私たちは知っている。

もしあなたが心に少しばかりの闇を抱えている人間ならば、曲から「人間」を想起する時、きっとこの物語を味わうことができるだろう。







・「愛すべき音たち」と"Wall of Sound"



まず、このアルバムのサウンドを楽しみたい!という方は、

ぜひステレオのリマスター版で聴くべきである。


モノラルでは聴き取れない楽器が現れたり、入り乱れたり重なり合っている音などを感じることができる。


特に"Wouldn`t It Be Nice"の2本のギターによるイントロや"God Only Knows"のフレンチホルンなど、

このアルバムの特徴である「音の瑞々しさ」を存分に感じることができるはずだ。




しかしながら、私は実はPet Soundsのリマスター音源を上記の2曲以外持っていないのである。(!)


ほかの曲もリマスター音源は聴いたことはあるものの私のiPodには入っておらず、上の2曲もPet Sounds外の音源だ。

つまりは私のPet Soundsはモノラルバージョンである。


レコーディング音源も収められているリマスター版"Pet Sounds Sessions"を良いヘッドフォンと一緒に買おうと思っているのだが……

(まともに音楽を聴き始めたのもここ1年なのでオーディオ機器も貧弱)



このような状況でサウンドについて語るのも気が引けるので、

1曲ごとの詳細なサウンドの解説は次回に譲ろうと思う。(スミマセン)



その代わりここではこのアルバム全体を通した音の楽しみ方について少し書きたい。


サウンドの最大の特徴はフィル・スペクターの影響を多大に受けた、多彩な楽器のアンサンブルからなるアレンジメントだろう。このスペクターのアレンジの特徴は"Wall of Sound"と言われる。

なんとなく聞くと気に留めないかもしれないが、かなり変わった楽器の使い方をしてる。



まず、一つ目はアップライト・ベースとフェンダーベース(エレクトリックベースギターの当時の俗称)の併用である。曲中に別々に登場することも珍しいかもしれないが、このアルバムでは二つのベースがユニゾンで鳴っているのだ。


フェンダーベースを弾いているのはキャロル・ケイ、アップライトはライル・リッツ。どちらもスペクター直参のスタジオミュージシャンだ。

このユニゾンが通常ではありえないベースの輪郭とコシを出している。


ほかにもエレキギターのオーバーダブによるきらびやかなユニゾンなども聴きどころ。クリーントーンの真骨頂である。


異なる楽器の組み合わせも多い。通常のアコーディオンなどのスタッカートのバッキングにハープシコードを重ねている。そこにギターストロークなども重なり、実に不思議な質感の音像になっている。



このアルバムでは普段ロックでは使われない楽器も使われているので注目していただきたい。

基本的なところで行くとティンパニ、ハープシコード、マンドリンやオルガンやブラス、ストリングスといったところだが、パーカッションとしてブライアン愛用の自転車のベルが使われている。


これはアルバムを通して随所に見られる音なので、ぜひ探してみてほしい。



以上の特徴は特に「どの曲にどの音がある」とは言っていないので、しばらく自分で「ウォーリーを探せ!」とばかりに聴きこんで発見してほしい。


答え合わせは、次回からの各曲詳細のレビューでしていただきたい。

(という名の時間稼ぎ(^^; )





ここでおすすめしたいCDは、上にもあるように"Pet Sounds Sessions"である。

これはリマスターされた音源だけでなく、ボーカル音源、インストルメンタル音源、レコーディングの様子を収めた音源と、このアルバムを研究する上で最も有用なボックスセットである。


しかし、通常のアルバムより高くつくので、廉価なものがほしい方は2012年版のモノラル・ステレオリマスターどちらも収められているものがよいだろう。



最近ではハイレゾ音源でも出たらしく個人的にはぜひほしいなあと思っている。(その前にハイレゾ対応のヘッドフォンを買わねば……)




次回はここで深く取り上げられなかったサウンドを中心に"Wouldn`t It Be Nice"を取り上げてみたい。




●参考文献

ジム・フジーリ『ペット・サウンズ』 村上春樹 訳、新潮文庫 2012年

ブライアン・ウィルソン『ブライアン・ウイルソン自叙伝―ビーチボーズ光と影―』、径書房、1993年









以上の文章『アイドル音楽のアウラと「マス」と「コア」』は(『ILLUMINARE ももいろクローバーZ音楽論』、2013年、ももクロ論壇、編集 さかもと)を参考にさせていただきました。


ももクロやアイドルについて詳しく知らない人に向けても書いたので、ファンの方にはくどい点もあるかと思いますが、何卒ご容赦ください。


●アウラを重んじる前山田健一のディレクション

 


ももクロの楽曲の特異性はプロデュースのやり方に起因するかもしれない。これはももクロの音楽プロデューサーの一人であり、作詞、作曲、編曲まで担当しているヒャダインこと前山田健一さんの影響が非常に大きい。ニコニコ動画出身だけあって、独特の「楽曲の建築」は定評があるが、その部分については多くの人が既に論評しているのでここでは触れない。ここで挙げたいのは彼のヴォーカルディレクションである。


通常アイドルのレコーディングでは少ないテイクで録り、のちに音程の微調整をしているのだろうと思われる。大人数グループならなおさらだろう。しかし、前山田さんはできるだけ多くテイクを録り、よいテイクを繋いでいく。その人の持つ唯一無二の声のアウラを大事にしているのである。これはライブで生歌を歌うことにも表れており、AKBの「マス」戦略による「かぶせ」や「口パク」、個々を埋没させて聴きやすさを優先した「多重ユニゾン」による楽曲構成といったアウラを犠牲にした方式を採らないのである。これは良い悪いでなく、何を優先させるかということである。


歌唱のパート割りにもかなり独特のものがある。多くのアイドルがユニゾン中心に楽曲を組み立てる中、ももクロはソロパートが実に多い。それもリーダーに泣きの「落ちサビ」をソロで歌わせ、リーダーはやや歌唱が不安定なので、落ちサビの前に歌がうまいメンバーを持ってきてよりコントラストをつけるなど、実にそれぞれの声を活かした配置をする。自己紹介ソングはもちろんそれ以外もソロパートの歌い手を暗示するような歌詞を分担し、時には自分の名前を含んだ歌詞も歌う(2ndシングル『ピンキージョーンズ』など)のである。まるで野球の打順のように、個性を活かしてつないでいくのである。


ここまで個人を熟知して楽曲を作る作風も、やはり前山田さんの影響は大きいだろう。彼は楽曲を作るにあたっては、かなり綿密に歌い手と面談をする。いや、「面談」といった堅苦しいイメージではなく、プロデューサーとアイドルの関係としては異常なまでにフレンドリーな会話である。上下関係の厳しいフォーマルな関係の人物に対し、心を開き、その人間性をさらけ出すことができるだろうか。前山田さんは、あえて歌い手と対等な立場になることでその素顔や人間性を引き出し、メンバー間の交友も熟知したうえで、それらを曲に昇華しているのである。




彼女らの純真で屈託のない人懐っこさは、このようなスタッフ陣の努力の賜物であると思う。よく見られる上からの厳しい指導というよりも、人間的信頼関係を築いたうえでの「厳しい指導」であり、ももクロのスタッフ陣との親密さは類を見ない。これはメンバーたちが前山田さんに対し「腹パンチ」をし、鬼軍曹とも呼ばれるマネージャー川上アキラには「おい!川上!」と罵倒し、ダンスの先生である石川ゆみに対しては「ゆみ先生」と下の名前で呼びかけることからもわかる。(普段は川上マネージャーに対しては「川上さん」と呼んでいる。)このようなスタッフ陣の指導はメンバーの人格形成に大きく影響したと思われ、芸能人の間では「擦れていない」「人懐っこい」と評判を呼んでいる彼女らの人徳もこれによるものも大きいだろう。元々は人間性を引き出すために行われた手法が「一石二鳥」で、まさかの彼女たちの人間性をもより魅力的なものにしてしまった、とも言えるのではないか。








●「コア」審美の拡大

 


「人間」そのものこそ最高の芸術なのではないかとふと思ってしまう時がある。もちろん芸術に優劣をつける権限を私は持っていないが、「人間」ひいてはいきものは、どのようなものと比較しても実に「アウラ」的である。流動性があり決してカタチをとどめず、そしてやがては死んでいく唯一無二の「人格」。まさに、今、この瞬間、この場所でしか感じることのできない存在である。

 

私は音楽史に疎く軽率なことを申し上げることはできないが、歌い手の人格そのものを題材とし、時間軸と共に物語を紡いでいく作品の作り方も珍しいのではないか。これは一種の伝記なのかもしれない。このような作品を解釈するためには、歌い手の人格を同時に理解しようという態度が必要であり、ポップスに比べてハードルが高い。このような「コア」審美は現時点ではほとんどファンにしか通用せず、(ゆえにコアと名付けたのだが)「マス」に対する戦略としては苦しいものがある。しかし、アイドルという「人格」そのものを芸術とするジャンルの隆盛と、「コア」的音楽を引っ提げたももクロの躍進とともに、この表現形態も次第に広まっていくのではないか。あわよくば、日本独自のスタイルとして世界に発信できないだろうか。と大風呂敷を広げてみたが皆さんはどう思うだろう。



作り手が見えない作品も、もちろん良いだろう。しかし、「コア」審美が発展した遠い未来で誰かが昔の「楽曲」を手にし、過去にあった人間の人格をふと想起するのも、なかなかアレゴリカルでいいなあ、と思ったりするのである。







AKBの代替とアウラ


AKBの表現とは代替のきく表現である。これは一般人が本人に成り代わり、カラオケでAKBの曲を歌いやすいというポップスの意味もあるが、そもそも秋元康の築いた48グループの組織そのものが代替によって成り立っているのである。AKBには卒業という名の「新陳代謝」がある。絶えず研究生が入ってきては、あるメンバーは「卒業」するのである。これはやむを得ず途中脱退するという性質のものではなく、「プログラミングされた」ものである。これはあたかも伊勢神宮の式年遷宮を彷彿させるような、巧妙な存続のためのシステムである。



しかし、今後48グループにとってそう簡単に事が運ばないと私は考える。それは48グループ、もといAKBそのものには「マス」に対して決定的に「アウラ」が不足しているからである。創設期からAKBを引っ張ってきた前田敦子や篠田麻里子が卒業し、大島優子も今年抜けるAKBに、果たして「マス」に対するアウラは薄くなっていないと言い切れるだろうか。少なくともAKBには、ファンのCD大量購入がオリコンチャートを押し上げ、それによって「マス」に対する宣伝を行った結果、認知度としては「国民的」と名乗りうるほどの存在になったという経緯がある。その現状では、「マス」はAKBに唯一性のある人格的(物語的)アウラを感じることができない。そこで「前田敦子」や「大島優子」といった、創設期以来の物語を汲む主要メンバーたちの「人格」をAKBという巨大組織に仮託したのである。しかし、彼女らが抜ける今、「マス」に対するアウラをどう構築するのか。



一方「コア」に対するアウラは、大人数のメンバーの一人一人がメンバー個人のファンに対しアウラを持っている。これはももクロと決定的に違うところではないかと思う。以下はあくまで個人的推測にすぎないのだが、AKBは「コア」に対するアウラが個人の分業であるが、ももクロは推しメンの風習はあるものの「箱推し」(チームももクロそのもののファン)が基本であるように、グループそのものにもアウラがある気がするのである。しかし、他のアイドルや音楽グループなどを見ると、これはももクロの特殊性というよりも大人数であるがゆえのAKBの特質であろう。

もちろんAKBにも「DD」(誰でも大好き)のように類似したものもある(アイドル界隈では広く使われており、AKBグループに限らない。)が、これは個人のファンというものを全員にあてはめたものであり、グループとしてのアウラではない印象を受けるのである。「マス」「コア」いずれにしてもチームとしてのアウラは希薄になりつつあり、今後どのようにアウラを打ち出すのか秋元氏の手腕が楽しみでもある。


いやー!だいぶご無沙汰していました

まあ、まともに期待していただいている人などおられんと思いますがww



最近はテスト週間も終わり図書館駐在人になっているので、この辺でアウトプットしてみようと思いました。間隔を空けすぎているので文体がそろいませんね。



これは私が書いた大学の社会思想のレポートを一部改訂しているものです。

著作権は私にあるので多分載せてもOKかなとw


ヴァルター・ベンヤミンの思想とリンクさせて書かねばならなかったので多少強引なところもありますが、このような視点で論じている方も少ないと思われるので掲載いたしました。


モノノフには「そんなん知っとるわ!」といった内容も多いと思いますが、あくまでももクロに詳しくない方向けの文章ですのでご容赦ください。

続きはまた追って掲載いたします。





◇アイドル音楽のアウラと「マス」と「コア」




日本のアイドル歌謡という存在は、世界的に見ても実に奇異な存在である。正直、ここまで歌唱力に対して甘い(寛容な)気質の世界も珍しいだろう。もちろん楽曲としてのクオリティに関しては高いものは多い。しかし歌っている本人は、いかにも技量的にそれと不釣合いである。ここでふと気づいたことは、日本においてこの現象は「アイドル」と呼ばれているジャンルに限らないということである。


以下は私見だが、私の好きなミュージシャンである「ゆず」は、最近はともかくデビュー当初の北川さんの歌唱力はお世辞にもうまいとはいえない。ロックバンドのTHE ALFEEも好きなグループだが、高見沢さんの歌唱力も決してうまくはなく、音程をはずしていることも散見される。思えば60年代のThe Beatlesでさえ、歌唱力という点では他を圧倒するような実力ではないかもしれない。(この場合は日本に限らないが)


このようなことから、いわゆるアイドル界隈に限らず、日本人は特に「歌い手」に対して「歌のうまさ」という以外の判断基準も重視しているのではないかと考えられる。そこで音楽という芸術に対する日本人独特の美学の考察を、アイドル音楽を中心に書いてみたい。



J-POPと「マス」が築く「複製芸術時代」


J-POPはその名の通りに「大衆音楽」であり、いわゆる商業音楽であるため、より多くの人に聞いてもらうことが重要となる。


私個人としては「いきものがかり」はもっともポップスという信念をもって取り組んでいるアーティストのひとつだと思っている。いきものがかりのリーダーである水野さんの作詞スタイルは「万人が自分と重ね合わせることのできる歌詞を書くこと」である。彼は斉藤和義さんの替え歌「ずっとウソだった」に対しTwitterにおいて嫌悪感を表すなど、政治的、社会的メッセージを楽曲に組み込むことはしたがらない。坂本九さんの「上を向いて歩こう」に対しては「誰でも知っている曲でありながら作り手の姿がほとんど見えておらず、曲が曲として存在し続けている部分がすごいと思った。」(2012430日テレビ朝日系『ゲストのゲスト』より)と発言していることから、時代を超えてより多くの人々に共有されうる楽曲を理想としていることが読み取れる。


アイドルでいえばAKB48がポップス路線をとっていると言えるだろう。AKBの楽曲は歌唱やダンスも難易度が低くマネしやすい。Aメロ→Bメロ→サビ、という楽曲構成が主であり、歌詞も繰り返しが多く、どこか聞いたことがあるような曲風で、幼稚園生だって口ずさみ踊れるのである。


これらのJ-POPはベンヤミンの言う「複製技術時代」と無縁ではないだろう。気軽に踊り歌えるということは、その楽曲が複製され多くの人に共有されることを前提にしたものである。複製の販売という行為は大量消費社会においてもっとも適したやり方であり、時に「商業主義」と揶揄されるゆえんである。また、踊りや歌の安易さは、みんなで仲良く踊ったりカラオケで歌ったりするという意味での「コピー」つまりアーティストと自己の同一化をも可能にし、まさに水野さんの言った通り「作り手(歌い手)の姿が見え」ず、「曲が曲として存在し続けている」のである。


しかしここで、上記の「マス」向けの戦略と全く異なった楽曲をつくるグループが出現する。しかもAKBと同じくアイドルである。ももいろクローバーZだ。


●ももクロの「コア性」

私の好きなアイドルは「ももいろクローバーZ」である。彼女らも上記のように、歌唱力を売りにしていない日本型アイドルである。しかし、ももクロの楽曲に注目してみると、通常のJ-POPとはかなりの差異があることがわかる。

まず有名どころである楽曲「行くぜっ!怪盗少女」を聴いてみても「万人が自分と重ね合わせることのできる歌詞」ではない。どう考えても自分たちのことを歌った曲である。この曲以降は特にこのような直接本人のことを歌っている曲が多い。もちろんすべてがそうではないが、少なくともモノノフ(ももクロのファン)にとっては、ポップス的歌詞もファンとメンバー、運営の関係など「コア」の物語性に仮託して解釈することが多い。楽曲と人格の不分離である。


実はこの曲以前は一般的アイドルソング、つまり万人受けする「恋愛」などが題材であるような曲が主だったが、そのころのファンの中には「怪盗少女」発売の際見切りをつけて「他界」(アイドル界隈におけるファンをやめることを指すスラング)する人もいた。その人の言うところでは、「自己紹介ソング」を歌うことは自分たちファンではなく、その後ろにいる一般層に向かって歌っているということであり、それに失望したということらしい。今では「怪盗少女」は「マス」向けとしてもさることながら、「笑顔と歌声で世界を照らし出せ」という所信(初心)を歌っているので、「コア」においても実に重要な歌である。これは一見すると矛盾である。自己紹介ソングは歌い手の人格とのリンクが必要なので、ポップスではなく「コア」な音楽であるはずなのに、この人には自分たちに向けていないと捉えられるのである。これはいわゆる「ガチ恋」と言われるアイドル界隈特有の疑似恋愛的考え方が影響しているのではないか。今のモノノフには、アイドル界隈の外からの人の流入が多いというアイドルとしては特異な状態にあるため、「ガチ恋」という観念は比較的薄いが、当時はこの典型的アイドルファンが多かった。このようなこともあってか、今のモノノフの感覚には、ももクロが国民的アイドルになるべく、ファンとメンバーが協力して頑張っているという関係があり「世間」が想定されているが、この人たちにとってはファン(自分)とアイドルで世界が完結しているのである。


これはポップスの柔軟性を如実に表している。ポップス的歌詞はその実態は「マス」的でありながら、解釈の柔軟性ゆえに「ガチ恋」の観念と矛盾なく適応してしまうのである。多くのアイドルがポップス的歌詞を採用しているのもこうしたことと無縁ではないだろう。(もちろん地下アイドルを中心にコア音楽を多用するアイドルも現れてきている。でんぱ.incなど)「コア」音楽は自己紹介という「マス」要素も同時に含んでおり、これが「コア」としてファンに受け入れられるには、コアでない領域である「世間」という概念も同時に必要なのである。




話を元に戻そう。このように楽曲と人格の不分離性は、聴き手が歌い手の物語性を理解しうる時、歌は「言霊」を持ち「マス」音楽を凌ぐほどの一体感をもたらす。それは歌い手を中心にした解釈を多くの聴き手で共有しあえるからである。この構図は歌い手を中心にした放射状の関係である。楽曲を通して歌い手に対する求心力はより強いものになり、まさに「カリスマ的楽曲」となりうるのである。このような曲は、たとえどんなに歌のうまい人が歌ったりしてもそれは物語性を伴わないものであり、歌い手の代替がきかない。つまり唯一無二性が非常に高く、楽曲、歌い手もろとも強い「アウラ」をまとうのである。

* ここで言う「ガチ恋」とは疑似恋愛的感情を指しています。様々な意味合いで使われることもあるようなので、誤解をさせてしまったら申し訳ありません。

次回に続きます