おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン -元おニャン子たちの現在-⑦ 宮野久美子
PHOTO=稲垣純也 TEXT=村田穫
80年代アイドルの象徴であり、現在に続くグループアイドルの礎を築いたおニャン子クラブ。9月20日の解散30周年まで7カ月を切った今、元メンバーたちに当時の思い出や近況を語ってもらいました。第7回は、おニャン子クラブB組としてグループに加入し、後に正規メンバーとなった宮野久美子さん。おニャン子クラブ解散後は、高校卒業を機に地元の愛知県に戻り、東海地方を中心にタレントとして活動。現在は結婚式場で婚礼司会者としても活躍しています。
おニャン子クラブB組は
基本的にメイクNGでした
――宮野さんは、週刊セブンティーン(現・Seventeen)とおニャン子クラブがコラボしたオーディション、「ミス・セブンティーンwithおニャン子クラブ」に合格して、中学生のメンバーだけで結成されたおニャン子クラブB組に入りました。
「元々アイドルが好きで、中山美穂さんに憧れていたんです。中学生になってからは、人気が急上昇していたおニャン子クラブも好きになって、夕ニャン(夕やけニャンニャン)も観るようになりました。本格的にアイドルになりたいと思い始めたのはこの頃ですね。中学3年生のとき、毎週欠かさず読んでいた週刊セブンティーンにオーディションの告知が出ていたので、『一歩踏み出してみよう!』と思いオーディションを受けました。ただ、合格後に上京することになったので、最初は両親が納得してくれなかったんです。でも、フジテレビのスタッフさんが『責任を持ってお預かりするのでよろしくお願いします』と親身になって両親に話をしてくださったので、無事、加入することができました!」。
――東京での生活はどうでした?
「まずは言葉に驚きましたね(笑)。地元の豊橋とは全然違うので、慣れるまで意外と苦労しました。豊橋って名古屋弁とも微妙に違っていて、語尾に『じゃん』、『だら』、『りん』が付くんですよ。だから、同期で入った吉見(美津子)ちゃんから“おりん”というニックネームをつけられました(笑)。夏休み明けに転校してきたので、学校では友達が少なくて寂しい思いもしましたが、同期のおニャン子たちとは楽しく過ごせましたね!」。
――ファンの方と初対面した日本武道館でのコンサートは緊張したのでは……?
「実は先輩メンバーと初めてお会いしたのがこのときなんですよ。控室にいらっしゃる先輩方に挨拶をしに行ったんですけど、お会いした瞬間、緊張と感激で固まってしまいました(笑)。みなさんすごくかわいかったのと、国生(さゆり)さんのオーラに圧倒されたことを今でも覚えています。このコンサートでの出番は新メンバーのお披露目挨拶のみでしたが、会場の雰囲気に飲まれて頭の中が真っ白になっていましたね。コンサートツアーは後に2回経験したんですけど、会場の大きさや公演回数の多さ、そしてファンの声援の凄さに、おニャン子クラブの人気を実感しました!」。
――加入してから半年間はB組としての活動でした。
「おニャン子クラブは学業が最優先なんですけど、B組は中学生ということもあって、想像以上に規則正しい生活でしたね。取材や撮影といったお仕事はほとんどが土日だったし、平日も夜遅くまでの活動はありませんでした。B組時代は夕ニャンとコンサート以外、正規メンバーと一緒になることが少なかったんです。あと、コンサートのとき以外は基本的にメイクNGでした。今では考えられないと思いますけど(笑)、リップを塗ったりビューラーでまつ毛を上げたりする程度でしたね」。
――メンバーの一員として心がけていたことは?
「基本的なことですけど、先輩メンバーやスタッフさんを含め、周囲の方への挨拶は心がけていました。人前に出ると緊張してなかなか笑えなかったので、笑顔も意識していましたね。でも、逆に不自然になっちゃうので、あまりうまくできなくて……。そのせいか、スタッフさんから『宮野は全然オーラが無いな』って言われていました(笑)。あとは太らないことかな(笑)。実はB組の中で一番太っていたんですよ。お揃いの衣装でも私だけがキツキツで、ファスナーが裂けちゃったこともあったんです(笑)。スタッフさんからお叱りを受けたので(笑)、それ以降は気をつけるようになりました」。
――おニャン子の憩いの場と言われていたフジランド(フジテレビ内の食堂)で、つい食べ過ぎてしまったとか(笑)?
「確かによく食べていたかも(笑)。でも、フジランドでは食べることよりも、食堂に来るタレントさんのほうに気をとられていましたね。アイドルの方もよくいらっしゃって、『南野陽子さんだ! 顔ちっちゃい! ウエスト細い!』みたいに、素人丸出しで(笑)はしゃいでいました。夕ニャン放送後は大体フジランドで食事をしていたので、すごく思い出に残っています!」。
――B組は在籍中に高校受験があったので、学業との両立が特に大変だったのでは?
「大変でしたね。夕ニャンに坂間(和夫)さんという東大卒のスタッフさんがいらっしゃって、B組のメンバーはずっとお世話になっていました。フジテレビの会議室で勉強するんですけど、すべての科目を見てくださるんですよ。英語や数学などメンバーが同時に違う教科をやっていても、即座に対応してくださるので本当に助かりました。入試が近づいてきたときには、苦手な教科を教えてくださる専属の先生も坂間さんが手配してくださいました。そのおかげで、晴れて高校に入学できたんですね(笑)。坂間さんとは今でも連絡を取り合っています!」。
――中学卒業後は正規メンバーになりました。
「このときにB組から卒業生が2人出たので寂しかったですね。環境面で一番変わったのは楽屋です。B組だけの楽屋から先輩メンバーと一緒の楽屋になったので、できるだけ迷惑にならない場所に居るように気をつけていました。衣装も(先輩と)一緒になったから、人気のある色を選ばないようにしていましたね。『ピンクは人気があるから、私はグレーにしておこう』みたいな(笑)。夕ニャン放送後の夜にもお仕事が入るようになったので、翌朝起きるのが辛いこともありましたけど、活動自体がすごく楽しかったので、それほど苦にはなりませんでした」。
――しかし、正規メンバーになってから約2カ月後におニャン子クラブの解散宣言が……。
「解散は正式発表よりも結構前に知らされたんですが、突然のことだったので、最初は状況が飲み込めなかったですね。直後に行われた個別の面談でスタッフさんと解散後の話をしているうちに、『おニャン子クラブが無くなっちゃうんだ』と実感して悲しくなりました。このとき私は高校生活が楽しかったので、『普通の高校生に戻りたい』と言ったんです。私と一緒にB組から正規メンバーになった吉見ちゃんと(杉浦)美雪ちゃんは、芸能界に残りたいという意志をスタッフさんに伝えていたので、『かたつむりサンバ』でフロントボーカルを務めることになったみたいですね。解散が決まってからは、今まで以上に先輩メンバーとの距離が近くなりました!」。
――ファイナルコンサートにはどんな気持ちで臨みました?
「とにかく悔いのないように全力で臨みました。どの会場に行ってもファンの方が力の限り声援を送ってくださるので、ひとりひとりの顔を忘れないように客席を見渡していました。大げさではなく、本当にみなさん涙を浮かべていたので、それを見ていると自然にテンションも上がってくるんです。最終公演が終わった後は寂しさだけが残り、しばらくは脱力感でいっぱいでしたね。ファイナルツアーで印象深いのは、各地のホテルでメンバーたちと過ごしたことです。ホテルにはメンバーが自由に集まれる“集いの場”みたいな部屋が用意されていて、美雪ちゃんやゆうゆ(岩井由紀子)なんかと楽しい時間を過ごしました。いつまでもこの日々が終わらないでほしいと思いながら……」。
元おニャン子であることを嫌だと
思ったことは一度もありません!
――おニャン子クラブ解散後は、高校を卒業するまで東京で過ごされたんですよね。
「おニャン子クラブの存続に関わらず、『高校を卒業するまではフジテレビで面倒を見る』という話になっていたので、その間はポニーキャニオンの寮で生活していました。解散直後こそファンの方が学校まで付いてきたりしましたけど(笑)、次第に普通の高校生活を送れるようになりました。寮では隣の部屋が、なんと上京したての夏川りみちゃんだったんですよ! すぐに仲よくなって、お互いの部屋で朝まで過ごしたりもしましたね。芸能界に残った元メンバーたちのことはずっと応援していました。この時期は、うしろ髪ひかれ隊や工藤静香さんなどのコンサートに足を運んだりしていましたね」。
――地元に戻ってからは「KISS」というアイドルグループを結成。東海地方を中心に活動していました。
「おニャン子クラブの解散が決まったとき、芸能界には残らないという選択をしたんですけど、実は、実家で生活しながら芸能活動ができるのであればやりたいという気持ちがあったんですね。なので、地元に戻ってから名古屋の芸能事務所に入りました。モデルのお仕事を少しした後、事務所内で『今度Jリーグが開幕するから、名古屋グランパスエイトの応援ソングを歌うご当地アイドルグループを作ろう!』ということになり、1991年にKISSという3人組のご当地アイドルが誕生。リーダーとして参加させていただくことになったんです!」。
――KISSの活動で感じたことは?
「おニャン子時代は、いきなり人気絶頂のグループにポンっと入ったので、『本当に私はこのグループにいるのかな?』といった非現実的な感覚だったんですね。だから、KISSはゼロからのスタートだった気がします。元おニャン子として紹介されることもありましたけど、おニャン子クラブではほとんど無かった“自分たちで作り上げる”という意識が強かったと思います。ファンの方との距離も近くなったので、自然に笑顔も出せるようになってきたんじゃないかな(笑)。インディーズを含めてCDを3枚リリースしましたが、おニャン子クラブでレコードを出させていただいたときとは感覚が全然違いましたね。嬉しさもひとしおでしたし、実感もすごくありました!」。
――その後、事務所の変更を機にKISSは解散し、別のメンバーを2人加えた「宮野久美子 with TOP’S」という3人組のユニットに……。
「これは事務所が変わったときに、社長さんが私のために用意してくださったユニットなんですよ(笑)。グループ・サウンズやアメリカンポップスを歌うご当地ユニットなんですけど、CDデビューを目指していたわけではなく、半分社長さんの趣味でやらせていただいた感じですね。MCや婚礼司会の仕事に重点を置くようになったので、現在は開店休業状態です(笑)」。
――この時期は東海地方にこだわって活動していましたけど、理由はあったんですか?
「先ほども少し触れましたが、地元で生活をしながら芸能活動したかったというのが大きな理由ですね。やはり住み慣れた場所だと、家に帰ってきた後、すごくリフレッシュできるんですよ。突き詰めると、結局は地元が好きということになるんですかね。だから、もし高校卒業後も東京に残っていたら、芸能活動はしていなかったと思います」。
――現在は婚礼司会者としても活躍されていますが、何がきっかけだったんですか?
「名古屋グランパスエイトの応援番組でアナウンサーさんとMCをやらせていただいたことがあったんですけど、その方から『もう少しゆっくり話した方がいいよ』とか、MCについてレクチャーを受けたんです。これがきっかけでMCに興味を持つようになりました。ちょうどその頃、婚礼司会をされている事務所の先輩から披露宴のビデオを観させていただいて……。その後、色々な方の披露宴に出席しているうちに『婚礼司会をやってみたい!』と思うようになりました。ただ、事務所の先輩から、『あまり若いと軽さが出てしまうので、始めるなら30歳を過ぎてからの方がいいよ』と言われたので、タイミングを待っていたんですね。昨年テレビ番組で、『タレント活動がいまひとつなので婚礼司会者になった』みたいなニュアンスで紹介されたことがありましたが(笑)、これが真相なんです」。
――婚礼司会の魅力とは?
「やはりプラスの運気が流れているところですね(笑)。『おめでとうございます!』とか『ありがとうございました!』とか言っていると、自然と笑顔になりますし、嫌なことがあってもすぐに忘れられるんですよ。新郎・新婦にとって大事な門出なので、早口にならず、ひと言ひと言をかみしめるように話すことを心がけています!」。
――そんな宮野さん、仕事のわりにはまだ独身ということですが……。
「そうなんですよ。他の元メンバーはほとんど結婚しているのに、私はまだなんです。もちろん結婚願望はあるので、いいご縁があればと期待しています(笑)」。
――結婚式は、やはりウェディングホールで盛大に挙げたいという感じですか?
「それがですね……、実は神社で挙げたいんですよ(笑)。現在、愛知県を中心にウェディングホールで婚礼司会をしているんですけど、そのことはホールの社長さんにも話しているんです。神前式を挙げて、家族や親しい友人など少人数で食事会をして、その後、ウェディングホールで盛大に二次会を開くのが理想ですね!」。
――おニャン子クラブも解散30周年まで7カ月を切りました。
「速かったですね。『もうそんなに経ったの?』といった感じです。私の場合、今でもよく(おニャン子クラブの)DVDを観たりCDを聴いたりするので、過去の出来事という感覚があまり無いんでしょうね(笑)。これまでに色々なことがありましたけど、10代より20代、20代より30代、30代より40代と年齢を重ねるにつれ、楽しいと思うことが増えてきているんですね。だから、これからの人生もすごく楽しみなんです!」。
――昨年の9月20日には、解散記念ビデオコンサートにもゲスト出演!
「出演前は不安でいっぱいでしたが、会場のお客さんを見た瞬間、テンションが一気に上がりましたね。去年は私以外にも国生さん、内海(和子)さん、智ちゃん(布川智子)が出演。最後に4人で歌えたときは本当に感激しました。ステージが終了してからもしばらくは興奮していたくらいです(笑)。ゲストに呼んでくださったことに感謝ですね!」。
――解散30周年には、また元メンバーで集まりたいですか?
「実現するかどうかはわかりませんが、『おニャン子クラブ』と名の付くところにはできる限り出席したいです。ファイナルコンサートのときに震える声で、『おニャン子クラブを忘れないでください!』と叫んだ国生さんの姿が今でも頭から離れないんですよ。このシーンを見て、私もおニャン子クラブを後世に残したいという思いが強くなったので、1人でも多くの元メンバーとお会いして気持ちを伝えたいです!」。
――宮野さんにとっておニャン子クラブとはなんですか?
「私にとって無くてはならないものですね。当時もそうでしたし、現在もそうですし、おそらく今後もそうだと思います。おニャン子クラブがあったから地元でもタレント活動ができたし、地元でのタレント活動があったから婚礼司会者としての現在もあるんです。この30年間、自分が元おニャン子であることを嫌だと思ったことは一度もありませんでした。だからこそ今でもおニャン子クラブが大好きだし、元おニャン子であることに誇りを持てているんだと思います!」。
宮野久美子(みやの・くみこ)
生年月日:1971年12月13日
出身地:愛知県
血液型:A型
【CHECK IT】
中学3年生だった1986年8月に「ミス・セブンティーンwithおニャン子クラブ 全国オーディション決勝大会」で特別賞を受賞し、おニャン子クラブB組3番としてグループに加入。翌年4月、中学卒業に合わせておニャン子クラブの正規メンバーとなり、会員番号51番として活躍する。おニャン子クラブ解散後は高校卒業を機に地元の愛知県に戻り、ご当地アイドルグループ「KISS」、ネオロマンチック・アイドルグループ「宮野久美子 with TOP’S」のメンバーとして東海地方を中心に活動。現在は婚礼司会者としても活躍中。
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