おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン -元おニャン子たちの現在-⑤ 城之内早苗
PHOTO=石塚雅人 TEXT=村田穫
80年代アイドルの象徴であり、現在に続くグループアイドルの礎を築いたおニャン子クラブ。9月20日の解散30周年まで9カ月を切った今、元メンバーたちに当時の思い出や近況を語ってもらいました。第5回は、おニャン子クラブ在籍時に演歌歌手としてソロデビューを果たし、独自の路線で活躍した城之内早苗さん。おニャン子クラブ解散後も、バラエティ番組への出演やラジオのパーソナリティを努めながら、演歌歌手としての活動を現在も継続しています。
演歌ではなく企画モノのレコードで
ソロデビューしていた可能性も(笑)
――城之内さんは幼い頃から民謡や三味線を習っていたそうですね。
「母が近所の友人たちと民謡や三味線の会をやっていて、そこについて行ったのがきっかけでした。土曜日の夜に行われていたので夜遅くまで起きていられるし、民謡を歌うと褒めてもらえるのですごく楽しかったんですね。そのうち本格的に三味線をやってみたいと思うようになり、民謡とセットで津軽三味線を習うようになりました。演歌を始めたのは民謡や三味線よりも後でしたね。父がカラオケ好きだったので、こちらも一緒に行くと夜遅くまで起きていられるんですよ。でも父の歌う演歌がものすごく音痴で……(笑)。私はアドバイスをしながら歌っていたんですけど、周りの人が褒めてくれるので調子に乗っていた感じです。どちらも夜遅くまで起きていられるのがポイントだったんですね(笑)」。
――民謡・三味線・演歌とアイドルはまったく毛色が違いますが、おニャン子クラブのオーディションを受けることになったきっかけは?
「中学生の頃、『全日本演歌選手権』というオーディションを受けたんですけど落ちてしまったんです。そのとき、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の方から声を掛けていただき、歌のレッスンを受けることになりました。そして、高校1年生のとき『レッスンだけじゃつまらないだろうから、たまにはオーディションを経験してみないか?』と言われたんです。それがおニャン子クラブのオーディションだったんですね。演歌とは全然違うオーディションだったんですけど、『合格してもおそらく3カ月で終わるから大丈夫』ということで(笑)受けることになりました。CBSソニーからは5人が選ばれて、その中にはそのちゃん(河合その子)も含まれていたんです!」。
――おニャン子クラブに入る前から河合その子さんにお会いしていたんですね!
「そうなんですよ。でも、私は演歌だったしそのちゃんは20歳目前だったから、『2人とも地方出身でアイドルにも程遠いから絶対に受からないよね。もう会えないね』ということで、記念に東京タワーに行きました。その後、最終審査まで残り夕ニャン(夕やけニャンニャン)に出演することになったためCBSソニーの寮に入ったんですが、そこでそのちゃんと再会してお互いにビックリ! 最終審査で着る水着はそのちゃんと買いに行ったんですけど、ともに東京がよくわからなかったので、そのちゃんが行ったことのある巣鴨の西友で買いました(笑)」。
――おニャン子クラブに入った当初はどんな感じでした?
「とにかくそのちゃんに頼りきりでした(笑)。水着の件もそうですけど、フジテレビへの行き方を教えてもらったり、銀行口座とキャッシュカードを作るときに手伝ってもらったり……。寮でも常に一緒でしたね。そのちゃんの部屋がベッドだったから、私の部屋に布団を並べて一緒に寝たり、一緒にお風呂に入ったり、寝食をともにしていました!」。
――おニャン子クラブでは民謡や演歌とは異なるアイドルソングを歌うことになりました。
「転校や寮生活など生活環境が急に変わったので、正直、考える余裕がまったくありませんでした。その中で『セーラー服を脱がさないで』のレッスンが始まったんですけど、ダンスが全然できなくて居残り練習をさせられたことを今でも覚えています。田舎育ちだったから、ダンスはフォークダンスと盆踊りしか知らなくて(笑)。(樹原)亜紀ちゃんとか(名越)美香ちゃんみたいなダンスがうまい人たちを見ていると、『これが同じ人間なんだろうか?』って思いましたね。しかし、初めての経験ばかりだったので、見るもの聞くものすべてがすごく新鮮でした!」。
――河合その子さんがおニャン子クラブを卒業したときはショックだったのでは?
「本当のお姉さんみたいに公私にわたりお世話になっていたので、すごく寂しかったですね。でも『これからどうしよう?』という思いとは別に、『そのちゃん、1人になって大丈夫かな?』という思いもありました。ただ、そのちゃんはもうソロデビューを果たしていたし、個人としての仕事も増えていたので、今から思えば余計な心配だったかも知れませんね(笑)。寮生活も(渡辺)美奈代ちゃんが入ってきていたので賑やかでした」。
――河合その子さんの卒業から約2カ月後に「あじさい橋」でソロデビューしました。
「ソロデビューが決まったときは本当に困りましたね。実は、ソロデビューがあるかもしれないということで、何カ月も前にデーモン小暮さんやサンプラザ中野(現・サンプラザ中野くん)さんにお会いしていたんです。そのときにスタッフさんが『面白い曲を作ってほしい』と言っていたので、『もしかして企画モノのレコード?』って思ったんです(笑)」。
――そんな話があったんですか!
「さすがにそれは勘弁してほしいと思っていました(笑)。結局、その話は無くなったみたいなんですけど、楽曲もできていてニャンギラス的な企画モノだったんですよ(笑)。でも、そうなるとアイドルソングしかないので『私には歌えないな』と思っていたんです。ところが、まさかとは思っていた演歌でのデビューになったので衝撃を受けました! 確かに私には向いているけど、『ファンの人は困るでしょ!』って高校生ながら思いましたね(笑)」。
――まさかとは思っていた演歌でのデビュー曲「あじさい橋」は、オリコンウィークリーチャートで初登場1位になりました!
「おニャン子クラブのパワーを改めて感じました。こればかりは自分ではどうすることもできないので、買ってくださった方々には本当に感謝しています。イベント会場に行くと、今でもレコードジャケットを持ってきてくださる方がいるんですよ(笑)」。
――おニャン子クラブは結成から2年半で解散を迎えましたが、解散を知らされたときの心境は?
「『セーラー服を脱がさないで』が発売された頃から、メンバーの間で『おニャン子クラブはいつ終わるのかな?』という話をしていて……、しかも、『年内までじゃない?』『次の曲が売れなかったら終わりだよ』といった近い未来での予想だったので、解散を知らされても驚きは無かったです。ただ、『よかった』『考えられない』『続いてほしい』『帰るところが無くなっちゃう』『ソロとして自立できる』といった様々な思いが頭の中を駆け巡るようになりましたね。ファイナルコンサートでは、『夢なら覚めないでほしい』という思いと、『解散はもう決まっているから……』という現実的な部分とが交錯していました。よく『ファイナルコンサートでは冷静だったね』と言われるんですけど、それは『伝えることはキチンと言わなければいけない』といった真面目な性格からだと思います(笑)」。
安定しているように見えて
紆余曲折があった30年……
――解散後は演歌歌手としての活動を継続しましたが、「ものまね王座決定戦」への出演も目立ちました。
「当時、夕ニャンのディレクターだった方が『ものまね王座決定戦』のプロデューサーになっていて、『今後、歌でやっていくならテレビに顔を出しておいたほうがいいから出演してみないか?』と声を掛けてくださったので出演することになりました。この番組のおかけで、島倉千代子さんや小林幸子さんといった大先輩の方々とご一緒させていただけたし、お仕事も増えたので、出演したことは大きかったと思います!」。
――そのときのプロデューサーさんが現在の旦那さんなんですよね。
「そうですね(照)。実は『あじさい橋』のPVを撮ってくださったのも主人だったんですよ。ただ、このときは夕ニャンに異動してきたばかりで、第一印象はお互いに最悪(笑)。私は、他のメンバーのPVが気心の知れたディレクターさんだったから『なんで私だけがよく知らない人なの!』って思ったし、主人のほうも『おニャン子クラブなんてよく知らないのに、なんで夕ニャンをやらなきゃいけないんだ!』って感じだったんです。でも、実際にお会いしたらとても誠実な方だったのでホッとしました(笑)」。
――初めて知りました!
「その後は、主人が考えた『おニャン子に水や粉をかける企画』(クイズなんじゃらほい)の最初の犠牲者になりましたね。話を聞かされたときは嫌だったんですけど、『ほしい家電をあげるから』ということで了解したんです(笑)。私が了解したことで他のメンバーから『なんでOKしたの!』と詰め寄られましたが、『出ればほしい家電がもらえるよ』と言ったら、『私も出る!』って次々に出演するメンバーが増えました(笑)。2004年に結婚したんですけどお互いを知り過ぎているから、逆にうまくいっているんだと思います」。
――1990年代に入ってからは、ラジオ番組のパーソナリティも務めるようになりました。
「今でも『城之内早苗のハートフルダイアリー』というレギュラー番組をやらせていただいているんですが、いろんな意味でポイントになったのは、1992年から4年間パーソナリティを務めた『走れ!歌謡曲』ですね。2時間の生放送ということでトーク力が鍛えられたし、ゲストの方の人間模様を細かく聞けるので人生勉強にもなりました!」。
――この時期は、おニャン子時代のファンから、おニャン子時代を知らない新たなファンへの過渡期でしたね。
「ファンに関しては悩みましたね。おニャン子時代からのファンの方は、演歌の公開録音のときに17番のハッピとかを着てきてくれるんですけど、場所が場所なだけに、みなさん本当に居心地が悪かったと思うんですよ。私としても場違いな感じは否めないし……。でも、1人でも多くのファンに来ていただきたい……。そんな葛藤の日々でした。『走れ!歌謡曲』のパーソナリティになったのはファン層の変化・拡大を目的にしていた部分もあったんですね。その結果、ご年配の方など新たなファンを獲得することができました」。
――1993年に「酔わせてよ今夜だけ」をリリース。翌年、日本有線大賞・有線音楽優秀賞(演歌)を受賞しました!
「この曲がロングセラーになったことでファン層も少しずつ変わり、落ち着いてきたと思います。ただ、細かく言うと完全な“演歌”ではなく、“ニューアダルトミュージック”だったので、着物が似合う演歌だったりドレスが似合うムード歌謡だったり、曲ごとに違っていました。ファンの方からも『もっと演歌っぽいのを歌ってほしい』『爽やかな感じの曲が聴きたい』といった異なる意見が出ていたので、まだまだ試行錯誤していましたね」。
――2000年代に入ると、民音主催のコンサートツアーで地方都市を回ったりもしました。
「この頃、『恋桜』という曲を歌っていたんですが、作曲が弦哲也先生だったんです。弦先生に曲を作っていただくことは、演歌の世界では目標のひとつなので、大きな転機になりました。そして、最初のツアーの1曲目が『恋桜』だったんです。初日のステージで緞帳が上がった瞬間、長年の努力が報われた気がして思わず泣いてしまいました(笑)。民音主催のコンサートは様々な年代の方がいらっしゃるので、お客さんの層が広がったことも嬉しかったです。このコンサートのおかげで目的意識が明確になりました!」。
――中野サンプラザホールでのデビュー20周年コンサートを含め、コンサートツアーは2006年まで続きましたが、また大きなホールでのコンサートをやりたいですか?
「今はホールでのコンサートよりも、歌が好きな人たちが集まって、お客さんと語り合えるような小さな会場でのライブをやりたいですね。実現するかどうかわかりませんけど、そのときは足を運んでいただけると嬉しいです」。
――その後2010年にテイチクへ移籍し、現在に至ります。
「ようやく自分の居場所を見つけられた気がしますね。これまでは地に根を張っていない浮き草状態が続いていたと思うんですよ。バラエティ番組だと『演歌でデビューした城之内さん』で、演歌の世界では『元おニャン子の早苗ちゃん』になるので……。それはそれで私らしいと思っていましたけど(笑)、40歳を過ぎて、やっと根を張り始めた感じです」。
――そんな城之内さん、昨年末に日本レコード大賞・日本作曲家協会選奨を受賞しました!
「感謝の気持ちでいっぱいです! 受賞できたのは、応援してくださったファンのみなさん、曲を作ってくださった作詞家・作曲家・編曲家の先生、CDを出せる環境を作ってくださったスタッフさんなど周囲の方々のおかげなんですよ。私はみなさんが担いでくれた神輿の上に乗っていただけなので、『おめでとう!』と言われると少し面映ゆいですね」。
――ニューシングル「豆桜」も昨年12月にリリースされたばかりです。
「この曲は、富士山を男性、桜を女性に見立てた夫婦演歌です。タイトルにある豆桜(マメザクラ)は実在する桜で、その名のとおり樹高が他の桜よりも低いんですね。『富士山(夫)が雄大に見えるように、桜(妻)がちょっと屈んでついて行きます』といった内容の歌詞にすごく惹かれました。私も演歌の世界では、この歌の歌詞に出てくるような、かわいらしい立派な女性に挑戦したいと思います!」。
――おニャン子クラブも今年で解散から30年になります。
「『たかが30年、されど30年』ですね。周りから見ると安定しているようにも見えますが、これまで話してきたとおり紆余曲折がありました。おニャン子クラブというものがあまりにも大きかったので、それに代わる新たな肩書きを見つけなければいけないと焦ったこともありました。でも、当時からずっと応援して下さる方もいらっしゃるので、それはとても嬉しいですね。1人でイベントに来ていた方が彼女を連れてくるようになったり、『今度結婚するから』とフィアンセを連れてきたり……。そんな方々を見ていると、もうファンを通り越して同士という感じです(笑)」。
――もし解散30周年の記念イベントがあるとしたら?
「私だけ呼ばれないのも寂しいから(笑)、開催するなら絶対に声を掛けてほしいですね。人によってやりたいことは違うと思いますけど、私は、近況報告も兼ねたトークショー的なイベントがいいかな? ただ、元メンバーだけだと収集がつかないので(笑)、司会が必要ですね。大竹まことさんが司会だったらものすごく盛り上がると思います!」。
――城之内さんにとっておニャン子クラブとはなんですか?
「かけがえのない青春であり、楽しかったクラブ活動ですね。活動期間は短いけれど、ものすごく凝縮されていたから、当時のことは今でもリアルに思い出せるんです。元メンバーはいとこみたいな存在ですね。若い頃には会っていたけど、大人になったら会う機会が少なくなって……、だけど法事のときには顔を合わせる。そして、集まったときの第一声は『ひさしぶり!』だけど、その後は昔のように会話ができる関係……。そんな仲間と出会えたおニャン子クラブに、心から感謝しています!」。
城之内早苗(じょうのうち・さなえ)
生年月日:1968年5月17日
出身地:茨城県
血液型:O型
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1985年5月、おニャン子クラブのオーディションに合格し会員番号17番として活躍。翌年6月に「あじさい橋」でソロデビューを果たす。おニャン子クラブ卒業後も演歌歌手としての活動を継続し、これまでにシングル29枚をリリース。受賞歴は、日本有線大賞・有線音楽優秀賞(演歌)(1994年「酔わせてよ今夜だけ」)、日本作詩家協会50周年記念大賞・日本作曲家協会音楽祭ソングコンテストグランプリ(2015年「おちょこ鶴」)、日本レコード大賞・日本作曲家協会選奨(2016年)。ラジオ番組「城之内早苗のハートフルダイアリー」(茨城放送:毎週日曜日22時~、和歌山放送:毎週土曜日21時~、岐阜放送:毎週水曜日21時~)が放送中。昨年12月14日にリリースされたニューシングル「豆桜」が絶賛発売中。