おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン -元おニャン子たちの現在-⑩ 杉浦美雪
PHOTO=稲垣純也 TEXT=村田穫
80年代アイドルの象徴であり、現在に続くグループアイドルの礎を築いたおニャン子クラブ。9月20日の解散30周年まで4カ月を切った今、元メンバーたちに当時の思い出や近況を語ってもらいました。第10回は、おニャン子クラブB組としてグループに加入し、正規メンバー昇格後はシングル曲でフロントボーカルも務めた杉浦美雪さん。おニャン子クラブ解散後もタレントやレースクイーンなど幅広いジャンルで芸能活動を継続。現在は杉浦未幸名義でモデル業を中心に活動しています。
おニャン子クラブの解散は
加入当初から意識していました
――まずは、週刊セブンティーン(現・Seventeen)とおニャン子クラブがコラボしたオーディション、「ミス・セブンティーンwithおニャン子クラブ」に応募したきっかけをお願いします。
「同級生の友人に『一緒にオーディションを受けてみない?』と冗談まじりで声をかけたことがきっかけでした。当時、週刊セブンティーンを毎週読んでいたのでオーディションのことは知っていたし、小学生の頃からアイドルへの憧れもあったので、家族や友人たちに背中を押され、軽い気持ちで受けてみようと思いました。ちょうど母親の知人に写真好きな方がいらして、その方に応募用の写真を撮っていただいたんですけど、その頃から次第にテンションが上がってきて……(笑)。ただ、絶対におニャン子クラブに入りたいという強い思いではなく、単にそういう(アイドルの)世界を見てみたいという気持ちでした」。
――オーディション前から夕ニャン(夕やけニャンニャン)は観ていました?
「かなり初期から観ていました。実はチェッカーズさんが好きだったんですよ(笑)。確かオープニングが『あの娘とスキャンダル』でしたよね。この曲につられて観だすようになりました。でも、その頃はまだおニャン子クラブをあまり意識していなかったです」。
――オーディションで印象に残っていることがあれば……。
「名古屋での最終審査ですね。オーディションは書類選考から始まって、その後、名古屋のテレビ局でビデオ審査や面接などを行ったんですけど、最終審査で残されたんですよ。『〇〇番の人は残ってください』という感じで……。それまでは全然自信が無く手応えも無かったんですけど、このとき『せっかく残していただいたんだから、このオーディションを頑張ってみよう!』という気持ちに変わりました。全国オーディションの決勝大会で特別賞をいただいたときは本当に嬉しかったです!」。
――初めておニャン子クラブのメンバーと会ったときの印象は?
「おニャン子クラブの人気が絶頂の頃だったので、先輩メンバーはすごく輝いていました。でも、入ったばかりで緊張していたことと年齢が離れていたことで、当初はやはり怖さ……というか気軽には近づけない雰囲気がありましたね。日本武道館でのコンサートで初めてご挨拶に行くとき、新メンバー全員が『失礼の無いように!』と気を引き締めたことを今でも覚えています(笑)。同期のメンバーは人数も多かったので、本当にクラスメイトみたいな感じでしたね。寮が一緒の子も多かったので、すぐに打ち解けました!」。
――おニャン子クラブの活動は、中学生メンバー5人によるB組からスタートしました。
「B組はとにかく学業が最優先でしたね。実は上京してすぐに東京の中学に編入するため、家庭教師の先生をつけていただいて勉強を教わっていたんです。さらに『学校で問題を起こしたり成績を落としたりしたら(おニャン子クラブを)クビになって地元に返される』という話だったので、自分で言うのもなんですが、品行方正で真面目に生活していました(笑)。活動面では、B組メンバーだけでいるときは割と気楽でしたね。逆に、先輩メンバーと一緒になるスタジオでは緊張の連続でした」。
――夕ニャンでは「おニャン子B組の中学生日記」というB組メンバーのコーナーも……。
「ありましたね! おニャン子ではB組メンバーのみが出演する、ドラマ仕立てのコーナーですよね。(山崎)真由美ちゃんが色モノキャラをやっていたことを覚えています(笑)。こうしたコーナーの存在や、B組の楽屋が別だったことを考えると、スタッフさんも“B組は別のグループ”という意識が強かったんだと思います」。
――他のB組メンバーと比べて“これだけは負けない”と思えるものはありました?
「全然無かったですね(笑)。むしろインタビューはメンバーの中で一番苦手だったと思います。いつも不安でいっぱいだったから、とにかく言われたことを言われた通り、キチンとこなすことだけを常に心がけていました。そのせいか、スタッフさんから『杉浦は教えた通り、真面目に踊っている!』と褒められたことがありました!」。
――B組といえば、やはり避けては通れないのが受験です。
「仕事と勉強の両立はハードでしたけど、これは他のメンバーも同じなので辛くはなかったですね。それよりも大変だったのが入試での面接でした。先ほども触れたようにインタビューが苦手だったし、成績が良くない分、面接で頑張ろうと思っていたので(笑)、とてもプレッシャーでした。記憶が定かではないんですけど、確かスタッフさんを相手に面接の練習をした気がします(笑)」。
――中学を卒業した後は正規メンバーに昇格しました。
「このとき2人のメンバー(冨永浩子、山崎真由美)がB組のまま卒業したんですけど、半年近く行動を共にしていたので、できれば5人で昇格したかったですね。正規メンバーになってからは、おニャン子としての活動が忙しくなり、先輩メンバーと一緒にいる時間も増えたので、以前に比べて自由度は無くなりました(笑)。でも、B組時代にはあまり歌えなかったおニャン子ソングを歌えるようになったので、すごく嬉しかったです! それと、もうひとつ嬉しかったことがあったのですが、それは後ほど……」。
――そして、8thシングルの「かたつむりサンバ」ではフロントボーカルに大抜擢!
「私の記憶だと、レコーディングのときはフロントボーカルであることを知らされていなかったと思います。なので、決まったときは嬉しさよりも緊張感のほうが強かったですね。私が選ばれた理由は今でもよくわからないんですけど、正規メンバーになったとき『将来は芸能界で活動したい』という意思をスタッフさんに伝えていて、その頃、私をスカウトしたいという事務所もあったみたいなので、それが影響したのかもしれません。フロントボーカルは4人で、私の隣がなんと(工藤)静香ちゃん! 今思うと恐れ多いですよね(笑)」。
――しかし、約1カ月後におニャン子クラブの解散が発表されました。
「意外かもしれないですけどショックは無かったですね。実はB組として合格したときに、スタッフさんから『早ければあと半年で(おニャン子クラブは)終わるかもしれない』という話を聞いていたんです。だからその時点で、そう遠くないうちに解散するということを意識していました。その意味で、正規メンバーになったときは、『B組のままで解散にならなくてよかった!』というB組出身者ならではの嬉しさもあったんですね」。
――解散発表から1カ月半後にスタートしたファイナルコンサートはどうでした?
「まずはレッスンが大変でしたね。B組から昇格したメンバーはこれまでの曲の振りを全部覚えなければならないので、吉見(美津子)ちゃん、宮野(久美子)ちゃん、私の3人で、ビデオを観ながら寮のテレビの前で練習しました(笑)。コンサートはどの会場も満員で、自分も客席で盛り上がりたいくらいでした! ツアーはすごく楽しかったんですけど、さすがに東京での最終公演が終わった後は『もうみんなでコンサートをすることは無いんだな……』と実感して、とても寂しかったです」。
レースクイーンを経験したことで
モデルとしての楽しさを知りました!
――おニャン子クラブ解散後は東京に残り、芸能活動を継続しました。
「解散してすぐに『(志村けんの)だいじょうぶだぁ』のアシスタント(だいじょうぶだぁギャルズ)が決まり、レギュラー出演したりしていました。歌やダンスをする機会がなくなったせいか、この時期は(おニャン子時代と比べて)ふっくらとしていましたね(笑)。ただ、解散後に所属した事務所は、私に演歌歌手か女優になってほしかったみたいなんです。演歌に強い事務所だったことと、『アイドルとしては背が高すぎる』ということが理由でした。当時は今ほど背の高いアイドルが多くなかったので、中学3年の時点で163㎝だった私は、社長さんのイメージではアイドル向きではないと思ったんでしょうね。でも、私はアイドルをやりたかったので悩みました」。
――やはりアイドルへの憧れが強かったんですか?
「もう30年も過ぎたので……今回、初めてみなさんにお話ししますが、おニャン子でソロ活動をされていたある先輩から『(おニャン子クラブの)解散が数カ月遅かったら、次のソロデビューは美雪ちゃんだったの……。実はレコード会社内でも話に出ていて……』と聞かされた事があったんです。これは解散直後に知ったオフレコ話ですが、当時は少なからず衝撃を受けました。そんな理由もあって解散後しばらくは、先輩方のような(アイドル)歌手への憧れが継続していたんだと思います」。
――初めて知りました!
「それと、当時人気アイドルだった(同じ読みの)杉浦幸さんとの混同を避けるため、芸名を『杉野美雪』→『杉美雪』と変えていたんですけど、当初は『白鳥美雪』が候補だったんですよ(笑)。もし、演歌歌手か女優になっていたらこの名前になっていたかもしれないんです! 確かに素敵な名前ですけど、私は『杉』の字を残したかったので、結局、幻の芸名になりました」。
――貴重な話、ありがとうございました。さて、1993年からはレースクイーンとしての活動が始まります。
「ソロ活動を始めてからしばらくは最初に入った事務所に所属していたんですが、やはり芸能活動に対する方向性が違っていたので、高校を卒業する1990年に離れることになりました。ただ、事務所のご厚意で『だいじょうぶだぁ』の仕事は継続させていただけたので恵まれていましたね。その後、新しい事務所でモデルの仕事を始めるようになり、かなりシェイプアップを意識しました(笑)。その流れの中で知人からレースクイーンの話をいただき、幸運にもオーディションに合格。本名の杉浦美雪名義で活動が始まりました!」。
――「だいじょうぶだぁ」とレースクイーンは時期的に重なっていたんですか?
「多少重なっていました。だから『だいじょうぶだぁ』をずっと観ていた方は、ふっくらとした高校生の女の子から、茶髪でソバージュのイケイケなお姉ちゃんになっていくまでの変化に驚かれたと思います(笑)」。
――レースクイーンの活動で驚いたことは?
「たくさんあるんですけど、まずは想像以上に体力を消耗することですね。夕方になると本当に脚が言うことを聞かなくなるんですよ! 夏場はアスファルトからの照り返しが強烈で、日焼けもすごかったですね。背中がクロスになっているユニフォームだと、日焼けの跡がクッキリ付くんです。走行音もかなり大きくて、慣れるまでは耳鳴りがしました!」。
――カメラマンもすごかったのでは?
「これも想像以上でした。その数はおニャン子時代のカメラ小僧さんたちよりも多かったと思います。毎回、帰りに写真をいただくんですけど、アルバムで渡してくださる方も多かったので、コスチュームと化粧道具とたくさんのアルバムで肩が折れそうになる日もありました。あと、少数ですがローアングルや胸ばかりを狙うカメラマンもいましたね(笑)。私たちからは強く言えないので、そういうときは周りのお客さんが注意してくれました。ただ、セカンドポーチに小さい穴をあけて、そこから脚の間ばかり撮っている人がいて……。そのときばかりはさすがに『なに撮ってるんですか!』って怒りましたね(笑)」。
――もちろん、楽しいこともあったと思います。
「いっぱいありましたね。私の場合、昔から車が好きだったので、お客さんの前に出ない時間は、メカの整備を見たりピットクルーと車の話をしたり、普通のレースクイーンとは違った楽しみ方をしていました(笑)。あと、レースクイーンを経験したことで、モデルとしての楽しさを知ったことも大きかったですね。『芸能界の仕事はテレビカメラの前で行うだけじゃないんだ』ということがわかって、モデルという新たな目標が見つかりました!」。
――この時期になると、アイドルをやりたいという気持ちも無くなっていた感じですか?
「無くなっていました。おそらく演歌歌手か女優が向いていると言われた時点で『アイドルは難しいかも?』と思うようになり、自分の歌唱力やタレント性から自己嫌悪に陥ったりして、結果的に挫折したんだと思います(笑)。私って結構メンタルが弱いんですよ。『だいじょうぶだぁ』に出演していた頃も仲の良かった大道具さんに、『お前はタレントに向かない性格だから、早くやめて嫁に行け!』って言われたことがあって……(笑)。普通だったら怒るはずなのに、なぜか納得してしまいました(笑)」。
――レースクイーン引退後は杉浦未幸に改名し、モデルとして活動しています。
「レースクイーンの活動は1997年度までで、その後はテレビCMや雑誌広告などでモデルをしています。名前は字画の良さから『未幸』に改名しました。レースクイーンとはポージングや表情が違い、演じる役も多岐に渡るので難しいところもありますが、その分、やりがいを感じますね。でも、20代の頃からなぜかファミリーの母親役が多くて……。母親らしい主婦らしい表情や動作を研究しました(笑)」。
――今後もモデルは続けていきたいですか?
「そうですね。モデルの現場はスタッフ間の距離が近くて居心地もいいので、私には向いていると思います。小規模な現場だと自分もスタッフの1人という感覚が強いので、作品を完成させたときの喜びも大きいですね。スタイリストさんやメイクさんと一緒にアイディアを出したり、他のモデルさんの衣装を直したりしているうちに、裏方的な楽しさを知ることもできました。モデルの仕事はおばあちゃんになっても続けたいと思います!」。
――そんな杉浦さん、現在も独身ということですが……。
「結婚願望はあるんですけど……のんびりしていたらこんな歳になってしまいました。20代から母親役で擬似ファミリーの子供たちや旦那さんと幸せな生活を演じてきていますが、現実は独身のままです(笑)。ただ、パートナーと呼べる男性はいますよ。……この話はこのへんで(笑)」。
――今年はおニャン子クラブの解散からちょうど30年です。
「30年って客観的に見ると長いですよね。0歳の子供が成人になり、そこからさらに10年ですから(笑)。でも、気持ち的には(おニャン子時代は)ついこの間という感覚です。もちろん、月日が経っているので当時の気持ちのままとは言えないですけど、あの頃のキャピキャピした感じは今でもあまり変わらないですね(笑)」。
――ファンの間では解散30周年の同窓会イベントを期待する声もあります。
「もし実現したら、おニャン子クラブとしての歌だけではなく、ユニット曲や先輩方のソロ曲も一緒に歌いたいですね。静香ちゃんと一緒に『かたつむりサンバ』を歌えると嬉しいです(笑)。ファンの方と当時を懐かしむのであれば、歌が一番だと思うんですよ。メンバー側もファン側も30年目の結束力が試されるので面白いと思います!」。
――杉浦さんにとっておニャン子クラブとはなんですか?
「当時は成長過程の一環、今となっては体の一部ですね。仕事に対する意識や人との接し方など、多くのことをおニャン子時代に教わったので……。それに、アイドル、バラエティ、レースクイーン、モデルなど、上京当時に夢見ていたことがすべて叶ったのもおニャン子クラブのおかげなんです。当時の体験がその後の新たな一歩を踏み出す勇気になったので、感謝の気持ちでいっぱいです!」。
杉浦未幸(すぎうら・みゆき)
生年月日:1971年10月14日
出身地:愛知県
血液型:O型
【CHECK IT】
中学3年生だった1986年8月に「ミス・セブンティーンwithおニャン子クラブ 全国オーディション決勝大会」で特別賞を受賞し、おニャン子クラブB組2番としてグループに加入。翌年4月、中学卒業に合わせておニャン子クラブの正規メンバーとなり、会員番号50番として活躍。8thシングル「かたつむりサンバ」ではフロントボーカルを務める。おニャン子クラブ解散後も東京に残り、タレントやレースクイーン(CABIN、STP)など幅広いジャンルで芸能活動を継続。現在は杉浦未幸名義でモデル業を中心に活動中。
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