おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン -元おニャン子たちの現在-④ 新田恵利

おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン-元おニャン子たちの現在-④ 新田恵利

PHOTO=稲垣純也 TEXT=村田穫
 

80年代アイドルの象徴であり、現在に続くグループアイドルの礎を築いたおニャン子クラブ。来年9月の解散30周年まであと1年を切った今、元メンバーたちに当時の思い出や近況を語ってもらいました。第4回は、おニャン子クラブの象徴として絶大な人気を誇り、グループ前期を牽引した新田恵利さん。おニャン子クラブ卒業後、一時期芸能界を離れましたが後に芸能界へ復帰。現在は芸能活動とともに、自身の体験から介護事業にも力を入れています。

 

新田派・国生派はスタッフさんが
位置づけたものだと思います(笑)

 
――新田さんは、夕ニャン(夕やけニャンニャン)の前身番組である「オールナイトフジ女子高生スペシャル」に出演したことがきっかけでおニャン子クラブに入りました。

「ご存じの方も多いと思いますが、番組内の『美少女コンテスト』の優勝賞品がハワイ旅行だったので、それを目当てに(オールナイトフジ女子高生スペシャルに)出演したんです(笑)。おニャン子クラブに入ったのも『新番組のアシスタントとして出演しませんか?』というお誘いだったので、アイドル活動をするとは思っていませんでした。夕ニャンが始まった当初も告知を読む程度だったので、楽しい文化祭くらいの感覚でしたね」。

――とは言っても、テレビ番組ですよね?

「正直、テレビに出ているという実感は無かったですね。自分の姿はモニターで確認できるんですけど、生放送だったから(その映像が)外に流れているという感覚がありませんでした。芸能界志向が無かったから全然緊張もしなかったし……。しかも、埼玉の田舎(笑)から長時間かけてフジテレビを往復していたので、録画した番組を家で観ることも無かったんです。あっという間に生放送が終わって、翌日も学校が終わるとすぐにフジテレビへ直行という毎日でした!」。

――新田さんは(おニャン子クラブの)結成当初からのメンバーでしたが、新メンバーが入ってくるときに感じたことは?

「最初の11人の中でも、私とナカジ(中島美春)は少し浮いた存在だったんです。他のメンバーは小さい頃にモデルをやっていたとか、何かしらマスコミやメディアに関わっている子が多くて、みんな洗練されていたんですね。私はブランド名も知らないし、お化粧の仕方もわからないし(笑)。その中で後から入ってくる子は、ほとんどが『テレビに出たい! 芸能界で活動したい!』といった明確な目標があったので、だんだん自分の居場所が無くなってきた感じでした。当時は知らなかったんですけど、(河合)その子ちゃんなんてデビューがほぼ決まった状態で入ってきたから完成度が高いんですよ(笑)」。


――しかし、先輩ということでグループを牽引する立場になりました。

「おニャン子クラブがどんどん大所帯になってコンサートリハとかが始まってくると、私と(国生)さゆりちゃんはスタッフさんから『先輩なんだから後輩を指導しろ!』とよく言われました。でも、私は団体行動が苦手だったし、『先に(おニャン子クラブに)入ったから、まぁ先輩か……』くらいの意識だったので、のらりくらりと逃げていましたね(笑)。さゆりちゃんは姉御肌だからちゃんとやっていましたけど」。

――年功序列でいくと、立見(里歌)さんや内海(和子)さんがまとめ役になってもいいと思いますが……。

「立見さんに頼もうとする人はいないでしょ(笑)。それに2人は後から入ってきたしオールナイトフジにも出演していましたからね。おそらくスタッフさんの中では、『おニャン子クラブは結成当初の11人が初代』という意識が強かったんだと思います」。

――こうした(おニャン子クラブの活動に対する)スタンスの違いが、後に言われる“新田派・国生派”になっていったんでしょうか? リアルタイムではまったくそんな感覚はありませんでしたけど……。

「これってスタッフさんが位置づけたものですよね(笑)。確かに(国生さんとは)スタンスは違いましたけど、基本的に“我関せず”なので、少なくとも私はまったく意識していませんでした。新田派・国生派って言われるとものすごく確執があったように思われてしまいますが、単に共通項が少なかった、あまり話が合わなかったという程度です。そういった感じのメンバーはさゆりちゃん以外にもいましたし……。女の子がたくさんいれば、どうしても合わない子って出てきますよね(笑)」。

――その後、「おニャン子クラブのエース」として1986年の1月にソロデビュー!

「今だから言えますけど、ソロデビューが決まったときは本当に嫌でしたね(笑)。本気でソロデビューを目指しているメンバーもいたので、プロ意識の無い私がその子たちを差し置いてソロデビューするのは失礼だし、どうしても妬まれるじゃないですか。出る杭は打たれるみたいな感じで」。

――この時点では、アイドルを本業としてやっていこうとは思っていなかった?

「本業という自覚は無かったですね。ただ、高校を卒業するときに、担任の先生が進路相談の三者面談をしてくれていないことに気付いて……。そのことを先生に聞いてみたら、『だってお前はその道(アイドル)に進むんだろ?』って言われたんです。そのときに『私の進む道はアイドルなのか……』と思い、アイドル活動をすることになりました。なんか他人事みたいですよね(笑)」。


――おニャン子クラブを卒業したのは、その年の9月でした。

「私の場合、ナカジみたいに自分の意思を明確に伝えたわけではなく、スタッフさんのひと声で卒業が決まりました。卒業が決まったときは、子供だったから『やっとこれで1人になれる』と思いましたね。先に卒業したその子ちゃんが新曲の宣伝で来たとき、『河合その子様』と書かれた1人部屋が用意されていたので、これからは私も個人で楽屋がいただけると思うと嬉しかったです(笑)。1人でやっていくという不安もありましたけど、解放感のほうが強かったですね。今まで雑多の中にいたから(いい意味で)スッキリしたという感覚でした!」。

――そして、1年後にはおニャン子クラブが解散することに……。

「おニャン子クラブにいたときは『窮屈で嫌だな』と思った時期もありましたけど、いざ解散となるとやはり寂しかったですね。いずれは終わるものだとは思っていましたけど、帰る実家が無くなってしまったような……。実家にいると親にいろいろ言われるから早く家を出たくなるけど、実家がなくなったら寂しいじゃないですか。そんな心境でしたね」。

――ファイナルコンサートにもゲストで出演しました。

「卒業後も夕ニャンにはちょこちょこ顔を出していましたけど、会話もあまりしたことの無いメンバーが多かったので、私がいた頃のおニャン子クラブとは違うなという感覚がありました。その中で気がかりだったのは、仲のよかった(永田)ルリ子の進路が決まっていないことでした。ミュージカルとか演技をやっていきたいという気持ちがあったのに手助けができない。ルリ子にいっぱい助けてもらったのに力になれなかった。それがとても悔しかったです」。
 
 

昔は「もうひとつの学校」だったのが
今では「いつまでも切れない親戚」に

 
 
――ソロになってからは「元おニャン子クラブ」という看板がついてまわりましたが、率直な心境は?

「正直、すごく嫌でしたね。『元おニャン子クラブ』の肩書きを外してほしいと本気で思った時期もありました。特に私の場合は『おニャン子クラブ=新田恵利』だったから(笑)、他のメンバーよりも払拭しづらいんですよ。そして、10年、15年経つうちに『あぁ、これはもう無理だな』って思いました!」。

――今では、もうわだかまりは無くなりました?

「全然無いですね。ある時、仕事でピンク・レディーさんとご一緒させていただいたんですけど、そのとき『元ピンク・レディーのミーちゃんです』って紹介されていたんですよ。私にとってはもう大先輩じゃないですか。それなのにピンク・レディーという肩書が付いてきているし、嫌な顔ひとつされない……。その姿を見て、『もういいや。それだったら(元おニャン子クラブの肩書きを)墓石にまで彫ってやる』と思えるようになりました(笑)。今では自分から『元おニャン子クラブ、会員番号4番新田恵利です』という挨拶をすることもありますし、『おニャン子クラブって誰がいたっけ?』という話になると真っ先に名前を挙げていただけるので、それはそれで嬉しいですね。私をどういうイメージで見るかは、受け取る側の自由だと思っています」。

――そういえば、ソロ活動を始めて数年後に一旦芸能界を離れましたね。

「バイト感覚でおニャン子クラブに入りそのまま突っ走ってきたので、芸能活動は自分がやりたかったことではなかったんですね。そんなとき『私の人生、これでいいのかな?』と考えるようになったんです。大人の都合で振りまわされることもあったので、大人不信にもなってしまって……。結局、3年近く芸能界を離れました。周囲の方からは『芸能界を離れたのは痛かった』と言われましたけど、ひとりの人間として生きていくためには必要な時間だったと思います!」。


――その間は何をされていたんですか?

「ものを書くことが好きだったので、経済誌でライターをやらせていただいたり、テレビ誌に小説を書かせていただいたり……。あとは、作詞にも挑戦しました。芸能界にいた頃と比べて時間に余裕があったので、最初の頃は目覚ましをかけないで寝られるから嬉しかったんですけど、最後の方は目覚ましをかけて起きたかったですね(笑)」。

――そこから芸能界に戻ってくるきっかけは?

「もの書きをしていた頃にエッセイを出したんですけど、そのときに自分の引き出しがもうないなと感じてしまったんです。私が知っていることはもうおニャン子クラブしか無くて、もし書くとすると暴露本になってしまうから、それだけはやりたくなかったんですね。そうなったときに、やはり芸能界の仕事は様々な人と出会えるし、いろいろな経験をさせていただけるので、引き出しが増える仕事だったんだなと気づいたんです。だから、仕事として自分で戻ろうと決意しました!」。

――復帰されてからは以前と比べ、気持ちに変化はありました?

「仕事をさせていただくという気持ちに変わりましたし、心から仕事をしたいという意欲が湧いてきました。一度離れた芸能界に戻ってきたので大変なこともありましたが、充実感はすごくありましたね。結婚してからもその気持ちは変わっていません!」。

――結婚といえば、それを機にお住まいを湘南に移しました。

「海の無い埼玉県で生まれ育ったので、海への憧れが強かったんですね。あと、自然の多い場所で暮らしたかったというのも湘南を選んだ理由です。家を建てたときに2世帯住宅にして、高齢となった母も引き取りました」。


――その後、テレビ番組の企画で脳動脈瘤が発覚。今年の6月に手術されました。

「脳動脈瘤が発覚したときは『なんで私が?』と信じられませんでした。ただ、自覚症状もない病気なので、年に一度の経過観察のとき以外はあまり気にならなかったです。コブが大きくなったとわかった時点で手術の覚悟をしました。手術から約半年が経ちましたが、経過も良好なのでなによりです!」。

――脳動脈瘤発覚とほぼ同時期に、お母さんが要介護となったので大変だったのでは?

「要介護になったときはやはり辛かったですね。しかし、やらなければならないことが目の前に山積みになっていたので、ショックや落ち込みなどを感じる暇はなかったです。現在は兄と2人で看ているんですが、母が頑張り屋さんで、少しずつ人の手がなくても動けるようになってきているので、一時期よりはだいぶ楽になりました」。

――それがきっかけで介護の仕事に携わるように?

「そうですね。私の講演が介護への興味や準備のきっかけになってくだされば幸いですし、そういった声をお聞きすると嬉しいです! ファンの方には満足いただけないかもしれませんが、今後は介護の仕事に力を入れて、芸能界の仕事はいただければやっていくという感じになると思います」。


――来年9月におニャン子クラブも解散から30周年になりますが、同窓会番組とかがあれば懐かしく参加するという感じですか?

「スケジュールさえ合えば絶対に参加したいです! 前にさゆりちゃんが言っていたのかな? 『みんなで温泉に行きたいね』って。昔みたいに野放しだったら、お酒を飲める人にガンガン飲ませちゃったりして面白いかも(笑)。最近はSNSが充実しているので、各自がいろんなメンバーに連絡を取って参加者を増やせればいいですね。いつもお約束のメンバーだからメンバー同士も飽きているんですよ(笑)」。

――おニャン子クラブを経験したことで役に立っていることはありますか?

「若い時代におニャン子クラブを経験できたのはとても貴重だったと思います。皆さんの中に“おニャン子クラブの新田恵利”というものがあるので、介護の講演をやらせていただくにあたっても、顔と名前は知っていただけているんですよ。そういう意味では役立っているのかも知れないですね」。

――新田さんにとっておニャン子クラブとはなんですか?

「昔はもうひとつの学校だったけど、今は親戚くらいに近づいた気がしますね。プライベートで連絡を取るメンバーもいれば、仕事でしか会わないメンバーもいますけど、風の便りでメンバーたちが何をしているか耳に入ってくるし、みんな幸せでいたらいいなって思うし……。青春時代に同じ釜の飯を食べた仲間だからこそ、親戚のようにいつまでも切れない関係になっているんだと思います!」。


 


 
 

新田恵利(にった・えり)

生年月日:1968年3月17日
出身地:埼玉県
血液型:O型

 

【CHECK IT】
1985年2月、夕やけニャンニャンの前身番組である「オールナイトフジ女子高生スペシャル」に出演。その流れで同年4月、会員番号4番としておニャン子クラブの結成メンバーとなる。1986年1月に「冬のオペラグラス」でソロデビュー。同年9月、おニャン子クラブを卒業し、タレントとして芸能活動を継続する。その後、一時期芸能界を離れるも後に芸能界へ復帰。現在は芸能活動とともに、自身の体験から介護事業にも力を入れている。「健康介護用品のカインドウェア」HPにてコラムを執筆中。自身がプロデュースに参画した「Eri Nitta by KINDCARE 漆器セット『恵』」が発売中。
 

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