おニャン子クラブ解散30周年カウントダウン -元おニャン子たちの現在-② 生稲晃子
PHOTO=石塚雅人 TEXT=村田穫
衣装協力=アブラハム
80年代アイドルの象徴であり、現在に続くグループアイドルの礎を築いたおニャン子クラブ。来年9月の解散30周年まであと1年を切った今、元メンバーたちに当時の思い出や近況を語ってもらいました。第2回は、工藤静香さん・斉藤満喜子さんとともにうしろ髪ひかれ隊で活躍し、おニャン子クラブ解散後はソロデビューも果たした生稲晃子さん。現在は、女優・タレント業の傍ら、鉄板焼屋の経営や、自身の闘病生活を基にした啓発活動も行っています。
加入当初は”ポスト高井麻巳子”
だと勝手に思っていました(笑)
――生稲さんは、おニャン子クラブに入る前にもアイドルのオーディションを受けていたそうですね。
「ホリプロタレントスカウトキャラバンやミス南ちゃんコンテスト(人気マンガ『タッチ』のヒロイン・浅倉南のイメージガールを選ぶコンテスト)などを受けたんですけど、芸能界志向はそれほどありませんでした。今だから話せますが、実は優勝賞金が目当てだったんです(笑)。ホリプロタレントスカウトキャラバンは、当時、優勝者に100万円、推薦者に50万円の賞金が出たので、『二人で山分けしよう』ということで、兄が写真を撮り紹介者になって応募しました(笑)」。
――おニャン子クラブのオーディションを受けたのもその流れで?
「そうですね。兄がおニャン子クラブのファンだったんですよ。夕ニャン(夕やけニャンニャン)を観たり『セーラー服を脱がさないで』を発売当日に買ったりしていたので、『おニャン子はどう?』って話になって。ただ、当時、私はバレーボール部に入っていたので、夕ニャンを観ていなかったんですね。ものすごく人気があるアイドルグループだということはわかっていたんですけど、詳しいことはあまり知りませんでした。だから、おニャン子クラブに入っても、夕方の5時から6時まで番組に出ていたらそれで終わりだと思っていたんです」。
――ところがそうではなかったと?
「想像をはるかに超えていました! おニャン子クラブの合格って金曜日じゃないですか。その直後にスタッフさんから『明日から動きやすい格好で来てください』と言われたんです。『え、なんで? 土曜日って番組ないじゃない?』って思ったんですけど、ちょうどコンサートリハーサルの真最中だったんですね。それ以降、リハーサルの日々が続いたので“毎日1時間のみの活動”という思惑はすぐに打ち砕かれました(笑)」。
――学校との両立は大変だったのでは?
「ある意味問題児でしたね(笑)。大学進学を目標に入った高校だったので、バレーボール部への入部を希望した時点で『勉強する時間がなくなるけど、大丈夫なの?』と先生から言われていたんです。それを納得していただいた後、さらにおニャン子クラブだったので、『あなた、それ本気なの?』と校長室に呼び出されました(笑)。でも、自分なりに学業も頑張ったので、学校側も次第に理解してくれました」。
――そんな生稲さん、夕ニャンでは下ネタを言わされていましたね(笑)。
「『夕ニャン大相撲』(男性がヘンなまわしを締めて相撲を取る視聴者参加型企画)のことですよね。このコーナーのルール説明を私がやっていたんですけど、その中に下ネタワードが入っていて……」。
――やっぱり恥ずかしかった?
「恥ずかしいというよりは『なんで私が……?』という気持ちのほうが強かったですね。図々しいかもしれないですけど、加入当時ファンの方から『ポスト麻巳ちゃん(高井麻巳子)』と言われていたんで、正統派で行くんだと勝手に思い込んでいたんです(笑)」。
――普通に正統派だと思っていましたが……。
「しかし、その後も街中でほら貝を吹いたり(ボオオ隊 街をゆく)、大竹まことさんの股間に顔を当てられたり(おニャン子忠臣蔵)したので、『スタッフさんは私に正統派は求めていないんだな』と自覚するようになりました(笑)。夕ニャン最終回の直前で『夕ニャン大相撲』が復活したときスラスラとルール説明ができたのは、自分の役割がわかったからなんですね。でも、消極的で個性が出せなかった私をクローズアップしてくださった企画なので、今ではとても感謝しています」。
――その後、工藤静香さん・斉藤満喜子さんとともにうしろ髪ひかれ隊でユニットデビューしました。
「うしろ髪(うしろ髪ひかれ隊)の話が(スタッフの間で)決まったときは、ちょうど受験だったので1カ月夕ニャンを休んでいたんです。それもあって、初めて聞いたのは(工藤)静香からだったんですよ。そのとき、私は(おニャン子クラブの)新曲のタイトルが『うしろ髪ひかれ隊』だと勘違いしていたんです(笑)。でも、よくよく聞いてみると、どうやら新しいユニットのようで、その後、スタッフさんから正式に話がありました」。
――そのときの心境は?
「嬉しかったですね。歌には自信がなかったけど、『3人だからみんなに迷惑をかけなければいいだろう』くらいの気持ちだったし。それに、このときはおニャン子クラブが解散した後も続くとは思っていなかったので」。
――しかし、結成から2カ月後におニャン子クラブの解散が発表。結果的にうしろ髪は解散後も存続することになりました。
「おニャン子クラブの解散を知らされたときはショックでしたね。まだまだ続くと思っていたしおニャン子でいたいと思っていたので、悲しさでいっぱいでした。だから、ファイナルコンサートのときは涙で顔がボロボロになっていたと思います。それに、おニャン子クラブの解散とともにうしろ髪も終わると思っていたから、その後の人生が大きく変わりました」。
――うしろ髪の存続がターニングポイントだったと?
「そうですね。解散後にうしろ髪が存続しなければ、おニャン子クラブの解散で芸能活動を終了する予定でした。もともと教師になりたいという夢があったので教師を目指そうとか、専門学校に入ってもう一度勉強し直そうとか、いろいろと考えていたんです」。
――そして、おニャン子クラブの解散から8カ月後にソロデビュー。
「これには正直驚きましたね! 先ほども言いましたけど歌には自信が無かったので、『着ぐるみでもなんでもやるから、ソロデビューだけは勘弁してください』と事務所の社長にお願いしました(笑)」。
――着ぐるみって(笑)。でもそれは受け入れられなかったと。
「社長から『ソロデビューしたくないなんて珍しいね(笑)。でも、もう決まっていることだから……』と説得され、腹をくくりました。しかし、最初のうちは辛かったですね。でも、あるとき、『私1人のために大勢の大人の方々が動いてくれている。それを断るとは、なんと私はわがままなんだ』と気付いたんです。それに、この運を逃したら芸能活動に限らず『もう自分には、一生チャンスは訪れないかもしれない』とも思ったので、芸能界で生きて行くことを決断しました」。
右胸全摘手術までの数カ月間が
人生で一番辛かったです
――アイドル活動が一段落してからは、バラエティ番組やドラマ・舞台などに出演するようになりました。
「バラエティは『クイズ仕事人』のレギュラー出演が大きかったですね。司会の島田紳助さんが、『とにかく思ったことはなんでも大きな声で発言しなさい。どんなことを言っても、全部フォローするから大丈夫!』って言ってくださったんですよ。その言葉が私にとってはすごく大きくて……。それ以降、どんな番組でも積極的に喋れるようになりました。後に旅番組のレポーターなどをこなせるようになったのは、この経験が大きかったと思います!」。
――演技の方は?
「アイドル時代にテレビドラマや映画の出演が多少あったんですけど、演じることの面白さ、難しさを肌で感じたのは、1994年に舞台(がしんたれ)を経験したときですね。舞台の場合、お客さんの反応が即座に伝わってくるじゃないですか。演技がよかったときは喜んでくれる反面、悪かったときはシビアな空気が返ってくる。こういった反応が演技に対する教科書になりました」。
――その後、古典芸能の世界にも顔を出すように……。
「『芸能花舞台』という古典芸能を紹介する番組の出演が決まり、歌舞伎座へ通うことになりました。能や歌舞伎といった古典芸能は、“演じる”という面ではテレビドラマや舞台と共通していますが、まったく未知の分野だったので、色々と勉強しましたね。舞台のときもそうだったんですが、自分の知らない世界に足を踏み出したときは、『わからないことはわからない』と素直になることが大切だと感じました!」。
――緊張の連続だったのでは?
「ものすごく緊張しましたね。でも、出演者の方々が初心者の私に優しく対応してくださって……。あるとき、能の人間国宝の方とご一緒することがあったんです。能で使うお面のことをこの世界では、面と書いて『おもて』と読むんですが、そのとき私にはあえて『おめん』と言ってくださったんですね。当然、一門の方々は焦るんですけど、人間国宝の方は『いいんだよ、おめんで。わかりづらいじゃないか』って言ってくださったんです。このとき、なんともいえない優しさ、温かさを感じました!」。
――結婚後はご夫婦で「鉄板焼 佐吉」を経営。お子さんにも恵まれましたが、2011年に乳がんが発覚し、昨年、右胸の全摘手術を受けました。
「発覚したときは早期だったので大事に至らないと思っていました。しかし、その後、2度再発して……。特に2度目は、命というものにも覚悟をしなければいけないと、自分に言い聞かせていました。ここから全摘手術までの数カ月間が、人生で一番辛かったですね。健康番組(ちい散歩、若大将のゆうゆう散歩)に出演していたので、ごく一部の人にしか打ち明けられなかったし、体の一部が無くなるという恐怖もあったのでどん底状態でした」。
――そして、同年の11月に乳がんを公表。今年5月には闘病の全容を綴った手記もリリース。
――現在、講演などの啓発活動を行っているのもその思いから?
「そうですね。私の話を聞くことで、1人でも多くの方が明るくなったり勇気を持ったりしていただければ、病気になったことが無駄ではなかったと思えるので。逆に、そう考えなければ、あまりにも辛すぎる出来事だったんです。講演をすることで乳がんに関する知識も増えたし、周囲の方からも励ましの言葉をいただけるので、今後も続けていきたいと思っています!」。
――そんな辛さを乗り越えた今、おニャン子クラブの解散から30年が経とうとしています。
「おニャン子クラブはついこの間の出来事という感覚なので、『(解散から)もう30年になろうとしているのか!』という驚きが一番強いですね。短い期間だったけど、密度の濃い日々を過ごさせてもらったんだなと改めて感じました。10代の時期に様々なことを体験させていただいたので、本当に感謝しています!」。
――今でも元メンバーとの交流はあるんですか?
「もちろんありますよ。最近一番会っているのは内海和子さんですね。お店(鉄板焼 佐吉)にもよく来てくれるんですよ。ただ、皆さん子育てや仕事で忙しいから、しばらく音信不通になっていた元メンバーもいました。それが、乳がんになったことで多くの元メンバーが連絡をくれたんです。それがきっかけでまた連絡を取り合うようになったので、私の中にもう1回おニャン子クラブが戻ってきました!」。
――ファンの方も、毎年(解散した)9月20日に集まっているようです。
「そうなんですよね。今ではほとんどの元メンバーが知っていると思います。私が初めて知ったのは、おニャン子クラブの力を借りなくても芸能界でやっていけると勘違いしていた(笑)20代前半の頃でした。この事実を知ったとき、『ファンの人に申し訳ない』と反省したんです。『おニャン子クラブがあっての生稲晃子なんだ』ということを認識させられたきっかけのひとつになりましたね。ファンの皆さんの心の中に永遠に残るグループの一員だったことを幸せに思います!」。
――生稲さんにとっておニャン子クラブとはなんですか?
「私にとっては母体ですね。おニャン子クラブにいたから芸能界で活動する現在の自分があるし、おニャン子クラブにいたときはすごく温かかったし居心地もよかったし……。そういう意味も含めて母体だったんじゃないかなと思います!」。
生稲晃子(いくいな・あきこ)
生年月日:1968年4月28日
出身地:東京都
血液型:B型
【CHECK IT】
1986年6月、おニャン子クラブのオーディションに合格し会員番号40番として活躍。翌年4月、工藤静香・斉藤満喜子とともにうしろ髪ひかれ隊の「時の河を越えて」でユニットデビューを果たす。おニャン子クラブ解散翌年の1988年5月に「麦わらでダンス」でソロデビューし、以降は女優・タレントとして活躍。現在は、芸能活動の傍ら、「鉄板焼 佐吉」の経営にも参画している。今年4月、5年近くに及ぶ乳がん闘病の全容を綴った「右胸にありがとう そして さようなら 5度の手術と乳房再建1800日」を上梓。自身の闘病生活を基にした啓発活動も行っている。
詳しい情報は生稲晃子公式HPへ
生稲晃子公式ブログへ
右胸にありがとう そして さようなら 5度の手術と乳房再建1800日 ¥1,404 (税込)